だいたい32×32で、麻生政権を振り返る。

麻生政権 2008年9月24日から2009年9月16日をドット絵で振り返っています。

20080922@総裁選:「保守再生」 男は何度でも勝負する


投票する麻生太郎幹事長 中央 =22日午後2時20分


自民党総裁選、麻生氏が勝利
http://www.afpbb.com/article/politics/2520242/3364353
【9月22日 AFP】(一部更新、写真追加)自民党は22日の両院議員総会で総裁選の投開票を行い、1回目の投票で過半数を獲得した麻生太郎(Taro Aso)幹事長を新総裁に選出した。

5人が立候補した総裁選で、麻生氏は国会議員票と地方票を合わせた527票中、351票を獲得した。次点は、66票を獲得した与謝野馨Kaoru Yosano)経済財政担当相だった。

新総裁に選出された麻生氏は、両院議員総会で公正な選挙への謝意を述べるとともに、「(立候補者)5人の間の対立はこの瞬間をもって終わった」と宣言した。

麻生氏は24日に召集される臨時国会で首相に指名される運びで、その後は解散総選挙の時期に注目が集まる。(c)AFP


麻生太郎氏、351票を獲得し第23代自民党総裁に選出…2位は与謝野氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080922/stt0809221510009-n1.htm
自民党総裁選挙は22日午後に投開票が行われ、幹事長の麻生太郎氏が過半数を超える351票を獲得し、第23代自民党総裁に選出された。

自民党総裁選は22日午後、党本部で党大会に代わる両院議員総会で投開票が行われ、麻生太郎幹事長(68)が1回目の投票で過半数を制し、福田康夫首相の後継となる第23代総裁に選出された。麻生氏は国会議員票(386票)と各都道府県連に割り振られた地方票(計141票)と合わせて計351票を獲得し、ほかの4候補を大きく引き離して圧勝した。麻生氏は臨時国会召集日の24日、衆参両院の首相指名選挙で第92代首相に指名され、麻生政権が発足する。

総裁任期は福田首相の残りの来年9月までの1年間。

一方、与謝野馨経済財政担当相は66票、石原伸晃政調会長が37票、小池百合子元防衛相が46票、石破茂前防衛相が25票だった。無効票が2票だった。



自由民主党 総裁選挙 」平成19年 9月26日
http://www.aso-taro.jp/lecture/2007_11bungei.pdf [PDF]
衆議院議員 麻 生 太 郎
八つの派閥の巨大連合を相手にして、小派閥ひとつを元手に徒手空拳で立ち向かった候補が予想外の善戦だったと他人はいう。判官贔屓の国ではあるし、いまだにサプライズが好きな劇場型政治が続いるのかもしれない。だが、私と私の同志にとっては予想通りの百九十七票であった。
九月二十三日の自由民主党総裁選で開票結果を待つ直前、私は会場で瞑目しつつこう考えた。

政治メディアの予想は、麻生は国会議員票で五十票しか固めておらず、地方票を含めて全体で百票を超えるかどうか、よくても前回平成十八年総裁選の百三十六票を超えるのがやっと、というものである。福田陣営が「福田康夫は四百票は超える。麻生太郎を百票以下に押さえ込んで政治生命を断つ」と言っているという話も聞いていた。だから、福田氏には四百票を切らせる、そして我が方は倍の二百票はとらないと格好がつかない。そう覚悟していたのだ。

別段、強がりや後付ではない。常々、私は「自分の選挙以外の票読みには自信がある」と言ってきた。だから私は総裁選の朝、信頼する同志たちと実際の票固めの反応をもとにあくまで慎重に数字を弾いたのだが、その結果は「最大百九十五票」というものだったのである。

結局、地方の都道府県連票と国会議員票で最大予想に二票積んで百九十七票を獲得した。確かに全体の三十八%という重い数字をいただいたことは満足すべき結果だったと思うべきかもしれないが、私も私の同志の反応も正直に言えば「二百票にあと三票足りなかったな」というものだった。

不思議な数字ではなかった。都道府県連票で言えば、東京や大阪、香川、宮城といった街頭演説を実施した場所や、神奈川、千葉、愛知など都市部で福田氏に競り勝ち、一般党員票の総計でも勝った。平成十三年の小泉純一郎氏圧勝の総裁選を持ち出すまでもなく、地方の現場の党員票の勝利を民意に敏感な国会議員が無視できるものではない。


百九十七票の原動力
さらに過去十年以上、常に総裁選で派閥合従連衡型の候補と戦ってきた私の経験でいえば、今回の福田陣営の態勢は強い派閥選挙ではなかったのである。

例えば私が側近として河野洋平総裁の再選に失敗した平成七年の総裁選が典型だ。あの時、梶山静六氏ら経世会小渕派)が橋本龍太郎氏担ぎ出しで党内各派閥を締め上げた選挙こそが派閥選挙の真骨頂だった。当選四∼六回生の中堅どころに集票と票読みのノルマを負わせ、そこに業界団体の力を背景に秘書軍団を含めた橋本陣営による国会議員への各個撃破が加わる。まさに「河野包囲網」が出来、戦わずして河野氏は出馬断念に追い込まれたのだった。

翻って、今回はどうか。伊吹派中川昭一氏、山崎派甘利明氏、そして古賀派菅義偉氏と、まさに派閥選挙の中枢を担うべき侍大将たちが、派閥の福田支持という重圧をはね除けて麻生陣営に加わってくれた。それは猛烈な感激であったのと同時に、「麻生包囲網」と言いつつ実際の福田陣営とは所詮、派閥領袖と選挙が苦しい当選一、二回の若手の声が目立つだけで、その実相は、中堅どころの活動の見えない、あるいは鈍い、一種の空洞化現象を起こしているのであり、十分勝負になると判断できた大きな理由ともなったのだ。

加えて党首力とその政党トップの政策・公約が選挙の帰趨を決めるこの時代である。福田氏に対し対北朝鮮外交にせよ靖国神社参拝問題にせよ、小泉・安倍時代に少なくとも自民党が歩んできた真っ当な保守政治の歩みに逆行しかねない曖昧さを持つとして、その時代を共有してきた自民党の中堅議員たちが言葉にならずとも打ち消せない違和感を感じているのもまた、選挙戦を通じて私に頻々と伝わってきた。

さらには世論との一体感である。総裁選が終わり、役員会その他の準備にとりかかろうとしていると、私の秘書がやってきて言うには「党本部の外が大変なことになっています。若者が五百人からそこら集まって麻生コールが続き、これでは収まりがつきません」ということだった。確かに前日の新宿のアルタ前の街頭演説で私の応援弁士が「明日は総裁選のある党本部に来て麻生を応援してほしい」と言い、私がインターネットの2チャンネルをチェックすると「永田町は日本で一番警備の厳しい場所です。あしたはみんなネクタイ着用でよろしく」という書き込みがあって、それなりに若者が集まるだろうとは思ってはいた。だが、確かに秘書に促されて党本部前の道路に出ると、これは大変な集団だ。中央分離帯にまで出て「ありがとう」と叫ぶと、ようやく納得して彼ら彼女らは帰ってくれた。

戦後の自民党総裁選の歴史で、敗れた候補が党員票で勝利した候補を上回ったのは初めてだろう。そして、これまで一番政治から縁遠かった若者たちを含む一般国民の民意と永田町の派閥政治との乖離。私にとっては、それを実感でき財産にもできた総裁選であった。


「安倍辞任劇の真相」
ここでひとつ、後世の歴史家のためにも、安倍晋三前首相の辞意表明を巡る一連の出来事の経過をきちんと記録に残しておきたい。

これは何も、この総裁選の最中に「麻生は安倍首相の辞意を知りつつ、誰にも明かさずに総裁選の準備を進めた」だとか「安倍首相は実は、内閣改造で麻生に裏切られたと漏らした」だとか言われた「麻生クーデター」説の汚名を晴らしたいだけではない。一国の首相の辞任という判断は限りなく重いものだ。それが、首相が万全に語らぬことをいいことに、誤った形で歴史の事実となることだけは絶対に許されるべきでないと思うからだ。

安倍首相がシドニーから帰国した九月十日夕、定例の自民党役員会があり、その終了後、その場で首相に「ちょっと残っていただけませんか」と呼び止められた。小泉政権以来、閣議でも役員会後でも首相にそんな形で相談を受けることはよくあったから、私は深い思いもなく安倍首相と向き合った。彼は、ブッシュ米大統領に約したテロ対策特別措置法の延長が頭にあったのだろう、「麻生さん、いまは戦後保守の最後の戦いなんです」と言った。だが続いて語った言葉は予想外のものだった。安倍首相は「体力、気力が段々なくなってきたんです」と言ったのだ。

私は「いや、今日の所信表明演説は良かった」と答えたのだが、首相は「体力、気力の衰え」を何度も口にした。後で思えば、私の想像力の欠如だったのだが、正直言ってそれがまさか辞意を漏らしたひとことだとは思わなかった。私がそれに気づかされたのは翌日のことである。

十一日昼、政府与党連絡会議のあと、私は首相にまた呼ばれた。公明党太田昭宏代表が次の面会者らしく、官邸の別室で待っているのが目に入った。彼の用件は何だろうと訝しみつつ向き合うと、首相はいきなりこう言ったのである。

「麻生さん、昨日もお話ししましたが、体力、気力の両面でこの国会を乗り切る自信がなくなりました」さすがにそれなら辞意だとわかる。だが私は言下にそれを否定した。

「テロ特措法の延長を心配されておられるなら、これは私ら執行部も協力して何とか通します。そういうことを言われるのは、テロ特措法の延長が実現した後です。いまは言うべきときではない。最悪のタイミングです」

それから先ほどの光景の意味にようやく気が付き、「まさか、太田代表に言われるおつもりではないでしょうね」と尋ねると、果たせるかな、「そうです」との答えである。

「ちょっと待ってください。太田さんに言ってしまえばもう流れは止まりません。何より、まだ自民党に説明していないではないですか。しかも代表質問も終えていない。何にせよまずこの国会での仕事を終えてからの話のはずです」

その会談でも首相は結局のところ、いつ辞めるかはもちろん、私の翻意への説得に対しても最終的な結論は口にされなかった。ただ、そのあと、首相は中川秀直元幹事長に会っている。そこで首相は中川氏にも辞意を伝えたのではないか。与謝野馨官房長官が記者会見で「麻生氏以外にも事前に安倍首相の辞意を知っていた人物がいるはず」と喝破したのも、そうした経緯を踏まえてのことだったのだろう。

その晩、私は、テロ特措法を巡る自民、公明両党の幹部協議を午前一時まで続けた。自民党大島理森国会対策委員長がその席で「安倍首相の指示で小沢一郎民主党代表との党首会談を申し込んでいる」と報告した。首相が党首会談に意欲を燃やしているということは、気力が回復して辞任を考え直したのではないか。誰にも相談できぬまま、私はひとりでそう自分に言い聞かせていた。それ以上に私は、国民の生命を究極的にあずかる総理大臣という職務は限りなく重いものであり、厳しいかもしれないが自分個人のことより国益を優先すべきだと確信していた。首相の健康や精神状態を繊細に思いやることができなかった自分の鈍感さは弁解の余地がないが、やはり国際公約たるテロ特措法の延長を仕上げた上で政権の幕をひくべきではなかったか。今に至るも私の考えは変わらない。だが、大島氏が翌十二日、小沢代表から党首会談を拒否されたと電話で報告すると、首相は大島氏を官邸に呼び、「代表質問は受けられない」と正式に辞意を伝えた。私はそのとき事務所にこもり、自分の代表質問の原稿の最終推敲をしていたが、首相からと大島氏からの電話がほぼ同時に鳴った。

首相の電話に先に出ると、「麻生さん。本当に、他言しないという約束を守っていただきました。でもいま大島さんに伝えました」と言われた。ここに至ってはもう辞任の流れは止まらないと覚悟し、「わかりました。それでその話をいつされますか」と聞くと、「今日の代表質問の前です」との答えである。代表質問の原稿を机に放り投げ、大島氏の電話に出た私はもはやこう言うしかなかった。「話はわかっている。緊急の役員会を開こう」私は十四日に首相のお見舞いに行った。言葉少なに「本当にご迷惑をかけた。どうしても体力が続かなかった」と語る首相に、私は「正直、首相の体調のことに思いをはせられなかった」と頭を下げたが、それでも内閣と政権党を二人三脚で担ってきた間柄である。「首相、同じ辞めるなら所信表明演説の前ではなかったですか」と申し上げた。

ひょっとすると、こうした経過を総裁選の最中に明かしておけばクーデター説は払拭され、選挙に有利に働いたというむきもあるかもしれない。だが私は、この未曾有の自民党の危機の折、党のイメージを決定的に損なう泥仕合だけは避けたかった。だいいち、安倍首相の身内を別にすれば、病室に入ることができたのは私と与謝野氏だけである。クーデター説が本当ならその首謀者を病室に入れるわけがない。少し考えれば誰でもわかることであり、良識ある国会議員がそんな謀略説を鵜呑みにするとは思っていなかった。

あるいは、総裁選の日程について、私が幹事長の職権を利用して九月二十三日ではなく十九日投開票という短期決戦を仕掛けて一気に麻生後継の流れをつくろうとしているとの批判もあった。そもそも十六人しかいない小派閥だけが拠り所の私にすれば、総裁選の日程が延びて、街頭演説やテレビでの政策論争を通じて地方票を掘り起こしていった方が有利に決まっている。この点でも麻生謀略説を流す反麻生陣営の理屈を不思議なことを言うと思ってはいた。しかも十九日投開票を主張したのは私ではない。

ポイントは二十五日に予定された国連総会への首相及び外相の出席だった。もとより昨年も安倍総裁を選出した九月の総裁選のあおりで、日本は首相も外相も出席していない。二年連続の不参加は絶対避けるべきだとの腹合わせは既に以前から首相と私で繰り返し確認してきたことであり、だからこそ首相は正式に辞意を伝えた自民党五役との会談でその点を強調したのだ。それに応じて、国連総会に新首相、新外相が出席するには国会の首班指名その他の日程を勘案して「ぎりぎり十九日投開票が限界です」と提案したのは国対委員長の大島氏だったのである。


福田氏への違和感
思えば安倍政権はこの短い期間に、教育基本法の改正から防衛庁の省昇格、憲法改正の手続き法たる国民投票法の成立まで、戦後保守が果たせなかった国家理念確立のための足場を作り上げた。吉田茂岸信介がかつてそうだったように現在の評価は厳しくとも、やがて歴史の審判が公正になされれば戦後保守史において必ずや再評価されるのではないかと信じる。そして、その基本路線を継承しつつ、さらに平成十八年の総裁選で安倍首相に次ぐ二位となり、ことあるごとに「首相になにかあったときにはそれに代わる存在となる」と公言してきた私にとっては今回、不利な戦いだから出馬を断念するという選択肢はなかったのだ。しかも私は最初から福田氏が出馬すると思っていたし、逆に言えば出馬してもらわないと困ると思っていた。仮に私の出馬表明が先行すれば、その記者会見で福田氏の出馬を促そうとさえ考えていた。福田氏と私は、歴史観や外交の分野で党内でも対極の位置にある。

例えば、小泉政権下で私が政調会長、福田氏が官房長官であったときの話だ。北朝鮮からの拉致被害者五人の帰国問題に際しても、私や小泉首相、当時の安倍官房副長官らの北朝鮮に戻す必要などないという考えとは明らかに福田官房長官は立場を異にしていたと思う。

私はその時々、小泉首相にしても安倍首相にしても保守たるものの方向性、哲学では同根のものを感じていた。小泉首相構造改革路線は、不良債権処理をはじめ保守政治の改革線上で一度は経なければならない道程だと思ったからこそ政調会長総務相、外相として支えたし、その小泉改革の行き過ぎを是正すべく格差感の解消と公教育改革や憲法改正など保守の理念改革を志向した安倍首相に対しても外相、そして幹事長として仕えた。だが、福田氏の思想信条は近年の自民党の保守再生の流れとは異質のものだ。それに対しては、堂々と違う旗を立てねばなるまいと考えた。それに、ここで福田氏が立たず、仮に私がその他の候補に勝って首相になっても、恐らく「反麻生」勢力は福田氏を担ごうとして非主流派として残ってしまう。総裁選で戦ってこそ強い首相になれる、いやその対決を経てこそ小沢民主党と乾坤一擲の戦いが出来ると信じていたのだ。

実は平成十八年の総裁選時の安倍首相も似たような心境だったのではないか。あのときも今回の森氏らと同様、福田氏を擁立する動きがあった。安倍首相は私との戦いを志向したのではなく、福田氏が出るなら自分が出ないと真正保守の流れが途絶えると案じたのではなかったか。正直、福田氏が出ず安倍氏が出るとなった時、私は一瞬だけ、自分は総裁選に出なくていいかもしれないと迷ったほどだ。

さらに今回の「麻生包囲網」は、参院選の惨敗にもかかわらず、私が安倍首相の続投を支持し、さらに八月末の内閣改造・党役員人事において、安倍首相を蚊帳の外に置いて麻生の主導で決めたのがケシカランとの批判が根底にあったのは間違いない。しかし、この点も首相の専権事項を無視した批判と言うしかない。首相の名誉のためにもここで事実を確認しておきたい。

確かに私は、参院で野党が過半数を制し、民主党参院議長を取る逆転国会のもとで幹事長を引き受けるのであれば、何より政党間協議が眼目であり、首相と官房長官、幹事長、国会対策委員長の一本線だけは完全なる腹合わせのできる人物を置かねばならず、そこの妥協はできないと首相と話をしてきた。人事の前日、首相公邸から私の自宅へ電話がかかってきて、森氏の「町村信孝官房長官古賀誠国対委員長」との腹案を二人で協議した時、私は自分の幹事長職務に直結するポストであるからその経験と手腕に期待して与謝野官房長官と大島国対委員長の案を提起した。場合によっては安倍政権の解散権行使の判断に直結する重要ポストは首相と私が完全に信頼できる人物を起用するしかないとの考えもあった。

もっとも、最後は首相の判断である。その人事案に賛同した首相に対し、私は電話で「そうなると官房長官も幹事長も総裁派閥とは別の派閥になります。それで清和会(町村派)は大丈夫ですか」と聞いた。それに対して「大丈夫です」と首相が明確に答えたことを私は鮮明に覚えている。それ以外の、例えば石原伸晃政調会長二階俊博総務会長、さらに言えば閣僚人事で自分から首相に何か要求したことはない。

ただ、私が幹事長就任会見で、小泉改革路線に明確に一線を画したことで、小泉氏や小泉チルドレンの激しい反感を呼んだのは間違いない。安倍首相と綿密に相談しつつ、平成十七年総選挙時の郵政造反組の代表的存在たる平沼赳夫氏の自民党復党を進めようとしたのも、郵政改革を否定するものとして小泉勢力の反感を買ったのだろう。だが来る政権を賭けた衆院選に向け、地域活性化を柱とするポスト小泉改革政権公約をまとめあげるためにも、有権者が具体的に目をする候補者の公認作業を急ぐためにも、そこは超えねばならないハードルであった。麻生は「反福田」と「脱小泉」を急ぎすぎたのだ、もっと時間をかけて順繰りに党内を掌握していくべきだった、との指摘も当然であろうが、私は幹事長として仮にもう一度、就任時に戻ったとしてもおなじ判断をすると思う。

しかし、どうだろうか。靖国参拝問題でも対北朝鮮問題でも明らかに福田氏とは路線が違った小泉氏が、福田氏陣営の前面に立ってもいいと発言したという話が流れた。国民・有権者からみて違和感がなかっただろうか。古い自民党の派閥政治をぶっ壊すと言い、国民の共感を得た小泉氏が、本当にまさに古い自民党の象徴たる八派閥連合の福田陣営に何の批判もなくエールを送ったとするなら、正直、失望を禁じ得ない。ことの真相を知る立場にはないが、小泉氏を徹底的に支えた飯島勲元首相秘書官が辞職したというニュースに、驚きを隠せなかったのは私だけではあるまい。

平成十八年の総裁選でも、確かに「安倍勝ち馬連合」と言われた、党内が安倍支持で雪崩を打つ現象はあったが、それでも再チャレンジ議連という政策を掲げた派閥横断型の応援団が現れ、それはそれで私は敵ながら天晴れな戦法と舌を巻いた。だが今回はどうか。福田氏を呼び込んで、山崎拓古賀誠ら派閥領袖が支持を確認し、テレビにその談笑の場面を撮らせていた。言うまでもなく、彼らが昨年押し上げた安倍首相が無念の退場をし、政治空白の代償を払ってわが自民党が再生のための総裁選を行う危機的状況である。その危機意識があればあのような談笑の場面が現出したであろうか。

安倍首相辞任受け、中川昭一氏はすぐに電話をくれ、そして、会うなり、「出馬するんだろう。どう考えてもこんな派閥連合なんて話はおかしい」と支持を約束してくれた。推薦人になるように頼んだときも、一瞬だけ、えっという声になったが、「冷や飯連合か。しかし毒喰わば皿までと言いますからね」と快諾してくれた。甘利氏の場合は、驚いたことに事前連絡もなく突然、決起集会に現れた。選対総局長だった菅義偉氏は毎日のように幹事長室で顔を合わせていたが、極めて早い段階で支持を打ち出してくれた。安倍首相と保守の理念改革を共有していた中川氏、安倍首相の再チャレンジ議連の中核を担った甘利氏や、菅氏が全面協力してくれたことは、各派閥の堅い閂を抜く上で大きな力になっただけではない。真正保守を残そうとする我々の選挙戦の大きな礎となったのだ。


幸運だったゴロ巻き人生
繰り返すが、私の総裁選の歴史は、派閥の合従連衡との戦いの連続であった。平成七年は経世会橋本龍太郎氏に対して再選断念に追い込まれた河野洋平氏の側におり、その橋本氏の後継を競った平成十年は小渕恵三氏に対して経世会を離れて立った梶山静六氏を推した。私自身の最初の挑戦だった平成十三年は小泉圧勝の前に当時十一人の河野派を拠点に三十一票に終わった。勝った側に立ったのは平成十五年の小泉氏再選の時ぐらいだが、あのときはまだ時代が小泉改革の続行を求めているとの判断があった。その小泉氏が退場した平成十八年の総裁選に二度目の勝負に出たのは、いよいよ時代がその改革の負の面の解消を求め始めたと考えたからに他ならない。余りに競争原理が突出し過ぎた日本の政治と経済のぎすぎすした現状を、かつての安保の岸政権の後を継いだ池田勇人政権が揚げた「寛容と忍耐の政治」のように局面を転換せねばならないと信じたからである。その思いは今も変わっていない。他方、我ながら不思議であり、幸運でもあると思うのは、わが故郷・筑豊の言葉でいえば、きちんと筋を通してゴロを巻いた、つまり喧嘩をした相手に評価され、その後、政治行動を共にする結果となったことだ。平成七年に河野再選阻止の立役者だった梶山氏を平成十年には支えることとなり、今回私を支持してくれた同じ梶山門下生の菅氏も感じたことと思うが、梶山氏からは旗を立てれば派閥に依拠せずとも首相の道が見えてくることを身をもって教えていただいた。小泉氏、安倍氏に、総裁選で戦ったのち仕えたことも先述した通りである。小泉氏からは古い派閥政治のままでは国会や党で数あわせの多数派は形成できても、無党派層を中心とした国民・有権者の多数派は得られないことを学んだと思う。

一方で、安倍首相に対しては、国家観においてシンパシーを感じていたものの、同時に互いの祖父から受け継いだ血の違いも感じていた。巣鴨から出獄してすぐに再軍備憲法改正を唱えた岸氏同様、安倍首相には保守の理念に殉じようという気概があった。それに比べれば、理念も大事だが、現実に合わせて実際に出来ることを計算する、吉田茂的なプラグマティズムが私にはあった。

総裁選出馬の共同記者会見で、福田氏は私を二十一世紀型の政治家だと評し、「本当は私と麻生さんが組めば一番いいんですよね」と言っていただいたが、瞬間、私の脳裏には、組み合わせの妙はやはり安倍首相と私のコンビだったのであって、決して福田氏とではないという思いが浮かんだ。だからこそ私は今回、福田氏から入閣の要請があっても受けるつもりはなかった。何より保守の思想、理念、哲学が違う。仮に幹事長留任要請があっても、もとより政党間協議と党の選挙の公認作業で私がベストの布陣と考えていた大島国対委員長と菅選対総局長の留任を最低条件として求めざるを得なかっただろう。

福田氏からは組閣の前日、短い電話で新政権への協力要請はあり、首班指名選挙の衆院本会議場ですれ違った時も、あの話は考えてくれたかといった程度の話はあった。ただし福田氏もまた政治家であれば、私が置かれた状況と古賀氏をはじめとする派閥連合の人事要求が相いれないものなのは把握していたに違いない。森氏からは組閣の朝、「今回は申し訳なかった。だが福田首相にぜひ閣内で協力してほしい」との電話があったが、丁重にお断りした。福田氏本人からはそれ以上の具体的なポストを挙げての協力要請はなかったのである。


キーワードは「保守再生」
日本には古来、時代が動くときには必ず国家目標となる四文字熟語があった。富国強兵然り、殖産興業然り、さらに所得倍増然り。私も梶山氏の教えに従い、旗を立てるべく長く自分なりの言葉を探してきて、この総裁選を経て一つの結論を得た。「保守再生」である。その勘所は、日本という国に対する矜侍と、保守政治に対する国民の信頼の二つである。しかも正しい保守は常に時代に合わせて自らを改革せねばならない。旧体制をぶっ壊すのはかつての革新であり、保守は新しい時代を建設せねばならない宿命を持つ。ポイントは三つある。日本の国家としての誇りが第一である。特に国際社会からのまなざしだ。

九○年代以降、日本はカネを出すだけでなく現実の貢献の形で国際協力の実績を積んできた。イラクへの自衛隊派遣はじめ諸外国から日本の活動が評価されるようになったことで、国民にも胸を張って日本の良さを自慢できる共有感が生まれてきたはずだ。テロ特措法を、新規立法の形にせよ、再議決の手順を踏むにせよ、必ず成立させるべきだと安倍首相と私が決断していたのは、何よりそれが、国際社会からの期待を踏まえて日本政府が発する国家意志の表明というメッセージだからだ。靖国神社の参拝問題で私は昨年宗教法人たる靖国神社に一切を任せてしまった政治の不作為を問う論考を発表したが、根底になるのは、国家のために命を落とした人々を悼む国家的行為を否定する国はないのだという筋論からに他ならない。

二つ目は、小泉改革の結果生じた日本社会の格差感や不公平感への対応だ。社会の分裂状況をストップし、日本国民としての一体感を再生するのは保守の真骨頂である。例えば私がアキバ系若者に人気だとか、漫画を愛読し、2ちゃんねらーの機嫌を取ってるだけとの批判があるが、それは私にとっての誇りなのだ。ネットカフェ難民という言葉も知らず、フリーターやニートを含め若い世代への共感がない政治家に次の時代を語る資格はない。

最近の自殺者の急増を申すまでもなく、社会から遮断されたとの思いを彼ら彼女ら次の日本を背負う若者たちが抱えているのだとしたら、これは超高齢化社会を迎える国の根幹を揺るがす事態である。保守の特質のひとつは、様々な国民各層の政策要求を柔らかく受けとめる包容力にこそある。

そして三つ目はまさに安倍首相が足場を築いた国家の理念改革の完成である。私は実は、参院選惨敗を受け、逆に憲法改正の好機を迎えたと感じた。もとより国の最高法令たる憲法の改正は、政権党であっても一政党たる自民党の判断だけではできず、立法機関たる国会の多数派形成がなければ実現できない。だとすれば、二院の片方の参院民主党はじめ野党が握り、権力と責任を与野党で共有するこの状況であればこそ、民主党との改憲の政党間協議が進むのではないかと考えるのだ。衆参の憲法調査会が意見集約の舞台となる以上、しかも改憲そのものを否定しない民主党なのだから参院ではその答えを出す責務が生じる。必要なら、参院選前の国会で与党が単独で成立させた国民投票法の改正から始めてもいいではないか。選挙に影響されない、あるいは政権維持・獲得の政局優先の政治に振り回されないところで改憲論議の再出発を準備するには、逆転国会ほど格好の舞台はない。民主党とて参院で比較第一党の座を占めたとはいえ、単独過半数には至らず、参院で法案や問責決議案を可決するにも共産、社民、国民新の野党三党の協調が欠かせない。つまり小沢民主党は左に引きずられる運命を避けられないのだ。

もとより我々自民党にとっても再生のためには次世代を担う若手の育成が急務だ。先の人事で私と安倍首相が当選一回議員を原則無役とすることを決めたのも、目立つポストにつくより、有権者との接点である地元廻りや国会対策、政策づくりの現場で地道に修行を積んでほしいとの思いからだった。それが小泉チルドレンの反感を買ったのかもしれないが、若い後輩の諸君にあえて辛口のアドバイスをしたい。

これは河野洋平氏がその父・一郎氏から残された教訓なのだが、政治家は無役で干されている冷や飯喰いの時こそ大事な成長の時間であり、鼎の軽重が問われるのである。正しくゴロを巻いて筋を通していれば必ず評価する先輩・同僚、そして支持者・有権者は現れる。大事なのは自分の選挙に強くなることだ。弱いというコンプレックスがあれば長いものに巻かれてしまうし、それこそかつて小泉氏が言ったように特定の業界団体や派閥の意向に従わざるを得なくなってしまう。それは自民党にとっても不幸なことだ。

これからの保守再生は誰が担うか。私には、現在の政界地図は、自民党の破壊者と古い自民党への回帰者の連合になりかねない政権が片側にあり、新保守主義者から社民主義者へと変貌した感のある代表が率いる政党がもう片側に位置するとみえる。その真ん中が次の政治の主人公を決めるいわば宝の在処だ。良質な中道・保守層の政治への再生という時代の要請に応えることこそ、百九十七票を与えられた私の今後の責務なのである。男は何度でも勝負するといったのは三木武夫元首相であったが、問われるまでもなく私も、保守再生の為、もちろん何度でも戦う。

*本稿は、「文藝春秋」(平成十九年))十一月号に「俺が新しい自民党を作る」として、 特集 瀕死の自民党の項に掲載されております。


<関連>
20080924@第92代内閣総理大臣
http://d.hatena.ne.jp/beber/20100307#p1

20080924@総裁選:衆院首班指名
http://d.hatena.ne.jp/beber/20100329#p2

20080911@総裁選:立会演説会
http://d.hatena.ne.jp/beber/20100725#p2

20080922@総裁選:総裁のイス
http://d.hatena.ne.jp/beber/20100526#p1